出なかった河川行政批判
7月に新潟・福島と福井を襲った集中豪雨は、200年に一度の豪雨だったという。2桁の死者が出たほどの災害だった。さて、今回の水害に関する報道はこれまでの報道とははっきり違っていた。「200年に1度の豪雨」を強調し、決壊した河川の堤防の弱さを指摘したり非難する河川行政批判がまったく見られないことだ。わずかに洪水ハザードマップの不備を指摘して水害対策の遅れを批判する記事はあったが、何でもすべて行政の責任にしてしまうマスメデイアの行動としては、決壊した堤防について一切言及しないのは極めて珍しい現象だった。何故言及しないのだろうか?「ダム計画潰し」など河川事業批判に躍起だったマスメデイアが堤防の整備不十分とは口が裂けてもいえないのだろう。だから「200年に1度」を強調して明示的にはいわないが「だから仕方がない」という結論を匂わせたのだろう。堤防の弱さを非難すれば「だから主張していたのに」と河川の公共投資拡大の口実を与えかねないので堤防には言及しなかったのではないか。
「200年に1度」という言葉を耳にすると、大分前だが河川審議会に専門委員として参加し5箇年計画を作成した時のことを思い出す。当時河川整備の新しい目標をどこに置くかが問題になった。それまでの規準は「50年に1度」程度の雨量でも耐えられるように堤防等を整備することだったが、この規準を「100年に1度」の雨量に耐えられるように整備規準を一段引上げることが提案された。この提案を巡ってかなり激しい議論があったが、最終的には、めったに起きない「100年に1度」の雨量に耐える整備はカネがかかり過ぎる。「100年に1度」程度ならば被害を甘受すべきだという結論になった。
災害対策の規準をどうするか?
「100年に1度」あるいは「200年に1度」と一口にいうが、これらが現実に生起した状態を正確に想像するのはむずかしい。今回の被災地の惨澹たる状況は「200年に1度」のレベルの大雨がどれほど凄まじいものかを物語っている。「200年に1度」の大雨の被害状況を目の当たりにした今日でも、被害を甘受すべきだという考え方は変わらないだろうか。「100年に1度」というと、一般の人々は今から100年後とはいわないまでも、ずっと先のことで明日それが起きる可能性があるとは考えていないし、一旦起きればそれから100年間は起きないと思っている。「起こりにくい」ということは明日起きないということを意味しないことに気づくべきである。
今回の集中豪雨は、改めて国民にどこまで災害対策のための投資をすべきかを考える機会を提供したと思う。昨今の河川、道路の整備のための公共投資をまったく無視する風潮を改め、どこまで大災害のリスクを減少させるための整備を行うべきかを真剣に討論すべきではないか。
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